境市内に残る7基の芋代官碑のうちの一つ。光祐寺境内にある芋代官碑は、円筒型で芋のような形をしている。正面に「泰雲院殿」と刻まれているが、これは井戸(平左衛門)正明の法名「泰雲院殿義岳良忠居士」に一部である。
井戸正明は江戸時代中期の幕臣で、勘定所における長きわたる忠勤が評価され、大森代官(島根県周辺を管理する最高責任者)に着任する。その後、西日本一帯に及んだ享保の大飢饉による領内の窮状に際し、先ずは年貢の減免や年貢米の放出、私財の投入などで対応した。さらに、僧から救荒作物に適していると聞いた”サツマイモ”を薩摩国より取り寄せて、領内の村人に移植させた。
この”サツマイモ”が栽培されるようになり、結果多くの領民を飢餓から救うことに成功したのである。
しかし井戸正明は、この大飢饉で”幕府の鞍を無断で開けた罪”などにより代官としての位を取り上げられ、備中笠岡の陣屋での謹慎中に死去。大飢饉に対し、身を削って勤めた過労によって急死・病死したという説と、大飢饉の対策として独断で年貢米を放出などを断行したことによる責任から、切腹を命じられたという説の二つがある。
いずれにしても、山陰地方にはじめて”サツマイモ”を移入し、もたらした恩恵は計り知れないものであり、領民からは『芋代官』あるいは『芋殿様』などと称えられ、西は島根県益田市から、東は鳥取県青谷町に至るまで、二百数十基の頌徳碑が建てられている。
救世の人 ” 芋代官 ”